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ぼんのうひぶんしょ
煩悩秘文書
林 不忘
Read 煩悩秘文書 (ぼんのうひぶんしょ) by 林 不忘 (はやしふぼう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 86,705 characters · 173 screens
「おうい!」
突き上げて来る感激に、胸がふるえる。
甲斐ぐちから登ってくるなら、有森利七に相違ないが、きゃつめ、女色煩悩を引き受けて七年むかしに山を下ったのだけれど――今この、灰の抜けた恋慕流しの咽喉から察するに、相当その道に苦労して、女という女を見事征服してきたに相違ない――。
大次郎の口辺に、友へのなつかしさが微笑となって浮かんで、
「おうい――!」
もう一度呼ばわると、唄声は、ぴたりと止んだ。
「有森ではないか。利七ではないか――伴だ! 大次だ。待っておったぞ。」
神社の横手から熊笹の中を、だんだら下りの小径が、はるか甲斐の国のほうへ落ちている。その降り口まで走り寄って大次郎が下を望むと、
「へっ! こりゃあ伴の若旦那で――どうも、あいすみやせん。長らくお待ちになりやしたか。」
という声とともに、一人の町人体の若い男が、その小みちを上って来る。
山がけの旅とも見えず、万筋の浴衣一まい引っかけたきりで、小意気なようすに裾を端折り、手に、約束のつづら笠を下げているのだが――水の撥先をぱらり捌いた小銀杏の髪に、鼻すじの通ったあお黒い顔、きりっと結んだ口、いかにもおんな好きのする面立ちは、忘れもしない、たしかにあの田万里で、一しょに小川の目高を掬って幼い日を送った有森利七である。