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こをうばう
子を奪う
豊島 与志雄
Read 子を奪う (こをうばう) by 豊島 与志雄 (とよしまよしお) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 39,292 characters · 80 screens
彼はふいと座を立った。書斎の机に坐ってみた。庭を歩いてみた。それから散歩に出てみた。然し遠くへは行かなかった。何だかしきりに気にかかった。家の前を何度も往き来した。或る坂塀の下の隙間から、可愛らしい仔猫が首を出して、彼の方を覗いていた。それを見て彼は、また家へはいっていった。
「お母さんはまだ?」と彼は尋ねた。
「はい、まだお帰りでございません。」と女中は答えた。
母は家を出てから、四時間ばかり後に帰ってきた。その時彼は書斎にぼんやりしていた。玄関先の石疊みを踏む両刳の下駄の音で、それと知ったけれども、なおじっと耳を澄ましたまま身を動かさなかった。暫くすると急いで階段を上ってくる足音がした。兼子がはいってきた。
「あなた、お母様が帰っていらしたわ。」
彼は黙ってその顔を眺めた。彼女は何かしら慌てていた。ちちりと眼を外らして、そのまま階下に下りていった。彼も立ち上った。室の中を一廻りくるりと歩いて、それから母の所へ行った。
幾代は火鉢の前に坐って、茶を飲んでいた。そして兼子に話していた。
「さほど遠いような気もしませんでしたよ。気が張っていたせいでしょうね。