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あらし

嵐

寺田 寅彦

Read 嵐 (あらし) by 寺田 寅彦 (てらだとらひこ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.

N2 · advanced · modern kanji and kana · 4,217 characters · 9 screens

Aozora Bunko

訳もなしに身に沁む。此処に来た当座は耳に馴れぬ風の夜の波音に目が醒めて、遠く切れ/\に消え入る唄の声を侘しがったが馴れれば苦にもならぬ。宿の者も心安くなってみれば商売気離れた親切もあって嬉しい。雨が降って浜へも出られぬ夜は、帳場の茶話に呼ばれて、時には宿泊人届の一枚も手伝ってやる事もある。宿の主人は六十余りの女であった。昼は大抵沖へ釣りに出るので、店の事は料理人兼番頭の辰さんに一任しているらしい。沖から帰ると、獲物を焼いて三匹の猫に御馳走をしてやる。猫は三毛と黒と玉。夜中に婆さんが目を醒した時、一匹でも足りないと、家中を呼んで歩くため、客の迷惑する事も時にはある。この婆さんから色々の客の内輪の話も聞かされた。盗賊が紳商に化けて泊っていた時の話、県庁の役人が漁師と同腹になって不正を働いた一条など、大方はこんな話を問わず語りに話した。中には哀れな話もあった。数年前の夏、二階に泊っていた若い美しい人の妻の、肺で死んだ臨終のさまなど、小説などで読めば陳腐な事も、こうして聞けば涙が催される。浦の雨夜の茶話は今も心に残っているが、それよりも、婆さんの潮風に黒ずんだ顔よりも、垣の山吹よりも深く心に沁み込んで忘られぬものが一つある。