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ひかげのまち
幻の探偵雑誌5 「探偵文藝」傑作選
松本 泰
Read 幻の探偵雑誌5 「探偵文藝」傑作選 (ひかげのまち) by 松本 泰 (まつもとたい) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 52,797 characters · 107 screens
コックス家にはビアトレスという、美しい一人娘がある。坂口が倫敦へ着いて間もなく、伯父と共に晩餐に招ばれたのは、このビアトレスの家であった。従って彼が若い女性と言葉を交えたのは、彼女が始めてであった。
鉄柵を繞らした方園の樹木が闇の中に黒々と浮上っている。傾きかかった路傍の街燈が、音をたてて燃えていた。坂口の歩いてゆく狭隘い行手の歩道は、凹凸が烈しかった。
彼は方園を過ぎて、心もち弓なりになったクロムウェル街を、俯向きながら歩いていると、すぐ五六間先の敷石の上に倒れている女の姿を見付けた。夫れは丁度コックス家の前あたりであった。坂口は喫驚して馳寄った。女は黒っぽい着物の裾を泥塗れにして、敷石の上に蹲っていた。
「どうかなさいましたか」坂口は傍へ寄って抱起した。
女は弱切ったような声で、頻りに、
「水、水」と叫んでいる。
幸いコックス家の前であったので、坂口は女の傍を離れて、石段を上ろうとすると、玄関の扉を開いて、若いビアトレスが顔を出した。
「今晩は、私です。今お宅の前へ参りますと、その方が倒れていたのです。それで、水を戴きに行こうと思ったのです」と、坂口がいうと、ビアトレスは美しい眉を顰めて、幾度も頷首きながら、石段を下りて女のそばへ寄った。