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おんしゅうのかなたに
恩讐の彼方に
菊池 寛
Read 恩讐の彼方に (おんしゅうのかなたに) by 菊池 寛 (きくちかん) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 22,824 characters · 46 screens
それは、彼らが江戸を出てから、三年目になる春の頃であった。参勤交代の北国大名の行列が、二つばかり続いて通ったため、木曾街道の宿々は、近頃になく賑わった。ことにこの頃は、信州を始め、越後や越中からの伊勢参宮の客が街道に続いた。その中には、京から大坂へと、遊山の旅を延すのが多かった。市九郎は、彼らの二、三人をたおして、その年の生活費を得たいと思っていた。木曾街道にも、杉や檜に交って咲いた山桜が散り始める夕暮のことであった。市九郎の店に男女二人の旅人が立ち寄った。それは明らかに夫婦であった。男は三十を越していた。女は二十三、四であっただろう。供を連れない気楽な旅に出た信州の豪農の若夫婦らしかった。
市九郎は、二人の身形を見ると、彼はこの二人を今年の犠牲者にしようかと、思っていた。
「もう藪原の宿まで、いくらもあるまいな」
こういいながら、男の方は、市九郎の店の前で、草鞋の紐を結び直そうとした。市九郎が、返事をしようとする前に、お弓が、台所から出てきながら、
「さようでございます、もうこの峠を降りますれば半道もございません。まあ、ゆっくり休んでからになさいませ」