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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
Read 樅ノ木は残った (もみノきはのこった) by 山本 周五郎 (やまもとしゅうごろう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 112,073 characters · 223 screens
甲斐も向き直った。ゆるい斜面の下で、くびじろは激しく鼻息をならし、二度、三度、その大角を振りたてた。甲斐は山刀の切尖をさげた。
下から襲われては、勝ちみはない、殆んど勝ちみはない。こんどは小角を使うだろう、と甲斐は思った。大角の前にある小角は鋭利で、その一と刺しは致命的である。だが機会がなくはない、うまく大角に手が届けば、首へ組みつけるだろう。そうなれば勝負はわからない、投げるな、と甲斐は思った。
甲斐は右足を曲げた。くびじろの肢の下で雪けむりがあがった。甲斐は呼吸を詰めた。耳ががんと鳴り、視界が一瞬ぼうとかすんだ。くびじろは大角をさげ、後肢で雪を蹴たてながらとびかかって来た。しかし突然、その前肢を折り、なにかで殴られでもしたように、首を振りたて、するどくなき声をあげながら、右へだっと横倒しになった。そして、甲斐は銃声を聞いた。
雪のために反響がなく、どこかへ吸いこまれてゆくような、短くて鈍い、その銃声を聞きながら、甲斐は茫然とくびじろを眺めていた。
くびじろは悲しげになき、首を振りあげ、立とうとして四肢でもがいた。雪しぶきが飛び散って、ずるずると斜面を滑り、大角がなにかにひっかかって、頭部を上にして停ると、もういちど高く、なき声をあげ、そして動かなくなった。