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すいがいざつろく
水害雑録
伊藤 左千夫
Read 水害雑録 (すいがいざつろく) by 伊藤 左千夫 (いとうさちお) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 12,302 characters · 25 screens
そうしてその後足には皆一寸ばかりずつ水がついてる。豪雨は牛舎の屋根に鳴音烈しく、ちょっとした会話が聞取れない。いよいよ平和の希望は絶えそうになった。
人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、たいていは自殺そのものの悲劇をのみ強く感ずるのであろう。しかし自殺者その人の身になったならば、われとわれを殺すその実劇よりは、自殺を覚悟するに至る以前の懊悩が、遥かに自殺そのものよりも苦しいのでなかろうか。自殺の凶器が、目前に横たわった時は、もはや身を殺す恐怖のふるえも静まっているのでなかろうか。
豪雨の声は、自分に自殺を強いてる声であるのだ。自分はなお自殺の覚悟をきめ得ないので、もがきにもがいているのである。
死ぬときまった病人でも、死ぬまでになお幾日かの間があるとすれば、その間に処する道を考えねばならぬ。いわんや一縷の望みを掛けているものならば、なおさらその覚悟の中に用意が無ければならぬ。
何ほど恐怖絶望の念に懊悩しても、最後の覚悟は必ず相当の時機を待たねばならぬ。
豪雨は今日一日を降りとおして更に今夜も降りとおすものか、あるいはこの日暮頃にでも歇むものか、もしくは今にも歇むものか、一切判らないが、その降り止む時刻によって恐水者の運命は決するのである。