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たまつきばのいちぐう
球突場の一隅
豊島 与志雄
Read 球突場の一隅 (たまつきばのいちぐう) by 豊島 与志雄 (とよしまよしお) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 14,111 characters · 29 screens
「おそばももう今晩はお流れだし、」とおたかが沈黙を破った。「松井さん、では一ゲームいらっしゃい。」
「もう今日は黙目だよ。」
「意気地なしだわねえ。林さん一つお願いしましょうか。」
林はただ微笑んでみせた。
おたかはもう突棒を手にして、媚ある眼でじっと見やった。で林はそのまま立ち上った。
林は平素よりいくらか当りが悪いようだった。
「大変優勢だね。」と村上はおたかに声をかけた。
「ええ今晩は馬鹿にいいのよ。」こう云って彼女は怪しい笑みを洩らした。
黙ってゲームを見ている松井の心にある佗びしい思いが湧いた。何ということもなく只捉え難い空虚の感である。瓦斯の光りが妙に淋しい。球の色艶が妙に儚い。
彼は遠い物音をでもきくような気で球の音をきいていた。暫くして漸く心をきめた。
「おいもう帰ろうよ。」
「え!」と村上は松井の顔を覗き込んだ。
「僕は先に失敬しよう。」と松井は云い直した。
「いや僕ももう帰るよ。」
「おやもうお帰り?」おたかが親しい調子で云った。「今日は大変お早いんですね。」
松井はじろりと林を見て、それからつと外に出た。村上もすぐ後に続いた。
大地は心地よく湿っていた。