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ちのもじ
血の文字
黒岩 涙香
Read 血の文字 (ちのもじ) by 黒岩 涙香 (くろいわるいこう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 44,021 characters · 87 screens
事あるを見て何うせ碌な人には非ずと思いたり、其事は他ならず、或日目科は当時の流行を穿ちたる最立派なる服を被かざり胸には「レジョン、ドノル」の勲章を燦めかせて外より帰ると見たるに其僅か数日後に彼れは最下等の職人が纏う如き穢らしき仕事衣に破れたる帽子を戴きて家を出たり、其時の彼れが顔附は何処とも無く悪人の相を帯び一目見るさえ怖らしき程なりき、是さえあるに或午後は又彼れが出行かんとするとき其細君が閾の許まで送り出で、余所目にも羨まるゝほど親げに彼れが首に手を巻きて別れのキスを移しながら「貴方、大事をお取なさい、内には私しが気遣うて待て居ますから」と叫びたり、大事を取れとは何事にや、委細の心は分らねど扨は、扨は、細君が彼れの身持を咎めぬのみかは何も彼も承知の上で却て彼れに腹を合せ、彼れが如き異様なる振舞を為さしむるにや、斯く思いて余は殆ど震い上り世には恐ろしき夫婦もある哉と嘆じたれど、此後の事は是よりも猶お酷かりき。
余は修学に身を委ねながらも、夜に入りては「レローイ」珈琲館と云えるに行き球や歌牌の勝負を楽むが捨難き蕩楽なりしが、一夜夫等の楽み終りて帰り来り、猶お球突の戯れを想いながら眠りに就しに、夢に球と球と相触れて戞々と響く