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さとう
麻布襍記 ――附・自選荷風百句
永井 荷風
Read 麻布襍記 ――附・自選荷風百句 (さとう) by 永井 荷風 (ながいかふう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 37,256 characters · 77 screens
夜帰る
人生日常の事一として哀愁を帯びないものは無いような気がしてならぬ。
ははははと笑ってA君は休茶屋の床几に腰をおろして正宗の燗を命じた。
お天気だと枝豆にゆで玉子いろいろこしらえて置きますが今日は何もおあいにくさまでと色の白い円顔の年は二十四五の女房。柳浪先生の小説にでもありそうな女房である。それでも気転をきかして焼海苔を持って来た。
何処もかしこも濡れている。日蔽の葭簀はさんざんに破れている。萩のしだれた池の水は土のように濁っている。向日葵も鳳仙花も鶏頭もみんな濡れて倒れていた。
鴉も啼かない。耳馴れた蝉の声に遮られて瀧の音もここまでは聞えない。境内は寂然として雨水の溜りに石燈籠と若木の桜の影との浮んでいるばかりであった。
職人が三四人丸太をかついで敷詰めた石の上を歩いて行った。朱塗の楼門の修繕中である事がわかった。
塗り直さないでもいいに。
井ノ頭のように俗了させたくないものだ。折角広重の名所絵に見る通りだのにと、わたしは立って石燈籠に刻まれた寄進の年月を読み始めた。
A君は正宗の手酌に句を案じている……。
夜帰る
電車もとうになくなってしまった夜深の町を歩いて、わが住む家の門を明け、闇の中に立っているわが家の屋根と庭の樹とを見上げる時、わたしはいつもながら一種なつかしいような穏かな心持になる。