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だざいおさむとのいちにち
太宰治との一日
豊島 与志雄
Read 太宰治との一日 (だざいおさむとのいちにち) by 豊島 与志雄 (とよしまよしお) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 3,591 characters · 8 screens
注射はさっちゃんの役目だ。勇敢にさっとやってのける。ビタミンB1は、アンプル中の薬液の変質を防ぐために、酸性になされていて、それが可なり肉にしみる。さっちゃんが注射すると、痛い、と太宰は顔をしかめる。
「僕にさしてみたまい。痛くないようにしてみせる。」
皮下に針をさして、極めて徐々に薬液を注入する。
「どうだ、痛くないだろう。」
「うん。」太宰は頷く。
そこで私は、終り頃になって、急に強く注入する。
「ち、痛い。」そして大笑いだ。
さっちゃんは勇敢に注射するが、ただそれだけで、他事はもう鞠躬如として太宰に仕えている。太宰がどんなに我儘なことを言おうと、どんな用事を言いつけようと、片言の抗弁もしない。すべて言われるままに立ち働く。ばかりでなく、積極的にこまかく気を配って、身辺の面倒をみてやる。もし隙間風があるとすれば、その風にも太宰をあてまいとする。それは全く絶対奉仕だ。家庭外で仕事をする習慣のある太宰にとって、さっちゃんは最も完全な侍女であり看護婦であった。――家庭のことは、美知子夫人がりっぱに守ってくれる。太宰はただ仕事をすればよかったのだ。
そういう風で、太宰とさっちゃんとの間に、愛欲的なものの影を吾々は少しも感じなかった。