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どんぐり
寺田寅彦随筆集 第一巻
寺田 寅彦
Read 寺田寅彦随筆集 第一巻 (どんぐり) by 寺田 寅彦 (てらだとらひこ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 203,161 characters · 412 screens
実際輪郭線がわずかに一ミリだけどちらかへずれても顔の格好がまるで変わってしまうのは恐ろしいようであった。ある場所につける一点の絵の具が濃すぎても薄すぎても顔がいびつに見えた。そのような効果は絵に接近して見ていてはかえってわからなくて少し離れて見ると著しく見えた。六尺の筆を使う意味が少しわかりかけたのである。
どうにか顔らしいものができた時にはそれが奇妙にも自分の知っている某○学者によく似ていた。そうとも知らず家内のある者がこの絵を見て「大工か左官のような顔だ」といった。
それから毎日いろいろと直して変化させている間に、いつのまにかまたこの同じ大工の顔がひょっくり復帰して来るのが不思議であった。会いたくないと思ってつとめて避けている人に偶然出くわすような気がしばしばした。ある日思い切って左の頬をうんと切り落としてから後はこの不思議な幽霊に脅かされる事は二度となくなった。
いつまでやってもついにできあがる見込みはなさそうに思われだした。ある日K君にこのごろ得たいろいろの経験を話しているうちに同君が次のような事を注意した。「いったい人間の顔は時々刻々に変化しているのをある瞬間の相だけつかまえる事は第一困難でもあるし、かりにそれを捕えて表現したとしても、それはその人の像と言われるだろうか」