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にちりん
日輪・春は馬車に乗って 他八篇
横光 利一
Read 日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (にちりん) by 横光 利一 (よこみつりいち) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 86,787 characters · 177 screens
そうして、彼女の右手の指に嵌っている五つの鐶は、亡き母の片身として、彼女の愛翫し続けて来た黄金の鐶であった。彼女は牛車から降りると、一人の童男に共なわれて宿禰の部屋へ這入っていった。宿禰は暫く彼女の姿を眺めていた。そうして、彼はひとり得意な微笑をもらしながら、長羅の部屋の方を指差して彼女にいった。
「行け。」
香取は命ぜられるままに長羅の部屋の杉戸の方へ歩いていった。彼女の足は戸の前まで来ると立ち悚んだ。
「行け。」と再び後ろで宿禰の声がした。
彼女は杉戸に手をかけた。しかし、もし彼女が不弥の女に負けたなら、そうして、彼女が、もし奴国の女を穢したときは?
「行け。」と宿禰の声がした。
彼女の胸は激しい呼吸のために波立った。が、それと同時に彼女の唇は決意にひき締って慄えて来た。彼女は手に力を籠めながら静に杉戸を開いてみた。彼女の長く心に秘めていた愛人は、毛皮の上に横わって眠っていた。しかし、彼女の頭に映っていたかつての彼の男々しく美しかったあの顔は、今は拡まった窪みの底に眼を沈ませ、髯は突起した顋を蔽って縮まり、そうして、彼の両頬は餓えた鹿のように細まって落ちていた。