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きゅうしゅじん
旧主人・芽生
島崎 藤村
Read 旧主人・芽生 (きゅうしゅじん) by 島崎 藤村 (しまざきとうそん) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 149,813 characters · 302 screens
汽車が国府津の方へ進むにつれて、温暖(あたたか)い、心地(こころもち)の好い日光が室内に溢(あふ)れた。
山本さんは彼女と反対の側に腰掛けて行った。時々彼は何か捜すように、彼女の前髪だの、薄い藤色の手套(てぶくろ)を脱(と)った手だのを眺めて、どうかするとその眼でキッと彼女を見ることもある。しかし、そこには楽しい日光があるだけのことだった……その日光に、形の好い前髪や、白い、あらわな、女らしい手が映って見えるというだけのことだった……
何処まで行っても山本さんは極くありふれた話しか出来なかった。ややしばらくの間、二人とも黙って了って、窓の外の景色を眺めていることもある。復た話が始まる。日本に比ベると、彼地(むこう)では豚の肉が驚くほど廉(やす)いとか……鶏卵が一個何程で求められるとか……それを聞くと、お新は世間の内儀(おかみ)さんが笑うと同じように、楽しそうに笑った。
二人は国府津で下りた。そこまで行くと余程温暖(あたたか)だった。停車場の周囲(まわり)にある建物の間から、二月の末でも葉の落ちないような、濃い、黒ずんだ蜜柑畠(みかんばたけ)が見られる。