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きゅうしゅじん
旧主人・芽生
島崎 藤村
Read 旧主人・芽生 (きゅうしゅじん) by 島崎 藤村 (しまざきとうそん) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 149,813 characters · 302 screens
秋のはじめから、奥様は虫歯の御煩で時々酷い御苦痛をなさいましたのです。烈しくなると私を御離しなさらないで、切ないような目付をなさりながら、私の背に御頭を押しつけておいでなさる。耳から頬へかけて腫起りまして、御顔色は蒼ざめ、額もすこし黄ばんでまいります。これには旦那様も大弱りで、御自分の額を撫でたり、大きな手を揉んで見たりして、御介抱をなさいましたのです。
と申したような訳で、よく歯医者が黒い鞄を提げてやって参りました。
歯医者というのは、桜井さんと言って、年はまだ若いが、腕はなかなか有ました。私が勝手口の木戸を開けて、河ばたの石の上に蹲跼みながら、かちゃかちゃと鍋を洗っていると、この人が坂の下の方から能く上って参りました。慣々しく私の傍へ来て、鍋の浸けてある水中を覗いて見たり、土塀から垂下っていた柿の枝振を眺めたり、その葉裏から秋の光を見上げたりして、何でもない主家の周囲を、さも面白そうに歩くのが癖でした。この人は東京の生ですから、新しい格子作を見る度に、都を想起すと言っておりました。一体、東京から来る医者を見ると、いずれも役者のように風俗を作っておりますが、さて男振の好という人も有ません。