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きゅうしゅじん
旧主人・芽生
島崎 藤村
Read 旧主人・芽生 (きゅうしゅじん) by 島崎 藤村 (しまざきとうそん) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 149,813 characters · 302 screens
父親と母親とで恐しい夫婦喧嘩をして、母親が「さあ、殺せ、殺すなら殺せ」と泣叫んだことも憶出しました。終には私が七つ八つの頃のことまで幽かに憶出しました。すると熱い涙が流れ出して、自分で自分を思いやって泣きました。髪は濡れ、枕紙も湿りましたのです。思い労れるばかりで、つい暁まで目も合いません。物の透間が仄白くなって、戸の外に雀の寝覚が鈴の鳴るように聞える頃は、私はもう起きて、汗臭い身体に帯〆て、釜の下を焚附けました。
私も奥様に蹴られたままで、追出される気は有ません。身の明りを立てた上で、是方から御暇を貰って出よう、と心を決めました。あまりといえば袖ない奥様のなされかた、――よし不義のそもそもから旦那様の御耳に入れて、御気毒ながらせめてもの気晴に、奥様の計略の裏を掻いてくれんと、私は女の本性を顕したのです。もうその朝は復讐の心より外に残っているものは無いのでした。
炉に掛けた雪平の牛乳も白い泡を吹いて煮立ちました頃、それを玻璃盞に注いで御二階へ持って参りますと、旦那様は御机に倚凭って例の御調物です。御机の上には前の奥様の古びた御写真が有ました。旦那様もこの頃はそれを取出して、昔恋しく御眺めなさるのでした。