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はんしちとりものちょう
時代推理小説 半七捕物帳(三)
岡本 綺堂
Read 時代推理小説 半七捕物帳(三) (はんしちとりものちょう) by 岡本 綺堂 (おかもときどう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 201,612 characters · 405 screens
彼はそれから何処へ行ったか、別に詮議するものもなかった。どこの船でも午飯をすませて、再び潮干狩をつづけていると、やがて夕七ツ(午後四時)を過ぎたかと思うころに、かの男は又ふらふらとあらわれた。かれは誰に云うとも無しに、遠い沖の方を指さして叫んだ。
「潮がくる、潮がくる」
その声におどろかされて、ある人々はかれの指さす方に眼をやったが、広い干潟に潮のよせてくるような景色はみえなかった。きょうの夕潮までにはまだ半刻あまりの間があることは誰も知っていた。かれは高い空を指さして又叫んだ。
「颶風がくる。天狗が雲に乗ってくる」
今度かれが指さしたのは沖の方でなかった。かれは反対に陸の方角を仰いで、あたかも愛宕山あたりの空を示しているのであった。この気ちがいじみた警告に対して、別に注意の耳をかたむける人も少なかったが、それでも品川の海に馴れている者は少しく不安を感じて、かれの指さす方角をみかえると、春の日のまだ暮れ切らない江戸の空は青々と晴れて鎮まっていた。
「颶風がくる」と、かれは又叫んだ。
天気晴朗の日でも品川の海には突然颶風を吹き起すことがある。船頭たちは無論それを知っているので、この奇怪な男の警告を一概に笑って聞き流すわけにも行かなかったが、そうした恐ろしい魔風を運び出して来るらしい雲の影はどこにも見えないので