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ししゃのしょ

死者の書

折口 信夫

Read 死者の書 (ししゃのしょ) by 折口 信夫 (おりくちしのぶ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.

N2 · advanced · modern kanji and kana · 62,340 characters · 126 screens

Aozora Bunko

其をすっかり、おれは忘れた。

だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声を聞いたのだっけ。そうだ。訳語田の家を引き出されて、磐余の池に行った。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい。あしこの萱原、そこの矮叢から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚び声を、挙げて居たっけな。あの声は残らず、おれをいとしがって居る、半泣きの喚き声だったのだ。其でもおれの心は、澄みきって居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だったものな。はっきり聞いたのが、水の上に浮いている鴨鳥の声だった。今思うと――待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き声だった気がする。――おお、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるような刹那を、通った気がした。俄かに、楽な広々とした世間に、出たような感じが来た。そうして、ほんの暫らく、ふっとそう考えたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去った――おれ自分すら、おれが何だか、ちっとも訣らぬ世界のものになってしまったのだ。

ああ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまったのだ。

足の踝が、膝の膕が、腰のつがいが、頸のつけ根が、顳が、ぼんの窪が――と、段々上って来るひよめきの為に蠢いた。