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たまものまえ
玉藻の前
岡本 綺堂
Read 玉藻の前 (たまものまえ) by 岡本 綺堂 (おかもときどう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 130,703 characters · 261 screens
玉藻に呼ばれて、千枝太郎は振り向いた。
「おお、玉藻……」と、彼はすこしく眉を動かしたが、さりげなく会釈した。「晴れたら俄に暑うなった。お身には河原で逢うたぎりじゃが、変わることもないか」
「お前にも変わることはありませぬか」と、玉藻はなつかしそうに言った。「その後にはよい折りがのうて、逢うこともならなかった。して、今はなにしにここへ……。お師匠さまのお供してか」
千枝太郎はうなずいた。彼は明るい夏の日の前で玉藻とむかい合って、きょうこそはその正体をよく見届けようと思ったのである。地に黒く映っている玉藻の影は、やはり普通の女の姿であった。千枝太郎は更に女の顔をじっと視つめると、玉藻は少し羞じらうように顔をかしげて、斜めに男の眼のうちをうかがった。
「お師匠さまはなんの御用じゃ」
「わしは知らぬ」と、千枝太郎は情なく言った。
梢の蝉は鳴きつづけていた。二人はしばらく黙っていた。
「お前には一度逢うて、しみじみ話したいこともあるが、よい折りはないものか」と、玉藻はひと足すり寄って訊いた。
懐かしげな、恋しげな、情けの深そうな女の眼をじっと見ているうちに、千枝太郎の胸はなんとなくほてってきた。