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しほんたいへいき
私本太平記(四)
吉川 英治
Read 私本太平記(四) (しほんたいへいき) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 229,324 characters · 458 screens
と、母の眼は驚きをもった。
「いつか恋歌なども知っているのね。ところが、藤夜叉さんの持つ悩みは、そんなきれいな、やさしい悩みではないらしいのよ」
「悩み?」
覚一は、小首をかしげる。
「……藤夜叉さんは、それをお母あさんに訴えて来たんですか。いつかの長いお手紙で」
「ええ、あのおひとの以前は、人も知るように近江の田楽女。……ですから、文字は子どものような稚拙で、文のつづりもたどたどしいのだけれど、よほど思いつめて書いたのでしょ。ほかには、打明ける人もないといって」
「どんなことを」
「それがね」
と、草心尼は何事にもかくしへだてのない子の覚一にさえ、ちょっと言いにくそうな言い濁りをかすめて。
「なにしろ、そんなお文なので、文字の裏から察しるしかないのだけれど、どうも去年の春のことらしいの」
「去年の春?」
「高氏さまが、一時この羅刹谷を御宿所としていた頃がおありだったでしょ」
「あ、そのころ、藤夜叉さんが、お子の不知哉丸さまを連れて、一色村から都へ出てきたことがありましたね。そして私たちのいる小松谷のおやしきに、しばらく滞在しておいでだった」
「ところが、かわいそうに、高氏さまはすげなく鎌倉へおひきあげになってしもうた……。