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しほんたいへいき
私本太平記(四)
吉川 英治
Read 私本太平記(四) (しほんたいへいき) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 229,324 characters · 458 screens
嫌厭も憎しみもわかず、いよいよ不びんを増すばかりなのが、彼を、だらしのない、一個の懊悩の男にしていた。
やはり彼も藤夜叉を愛していたというほかはない。こんな愛憐を一人の女に集中して、理性も何も失いかけるなどは、これまで彼も覚えなかったことだろう。とつぜん、自分の中の埋み火があげた炎に、どうにも寝つかれない寝返りを、いくどとなくしている高氏としか見られなかった。
かえりみると。彼の大望の素志が固まったのは、彼が藤夜叉を知ってまもない後からのことだった。――かの鑁阿寺の置文は、そのときから彼の青春を、或る未知数な日までの、氷の中に閉じこめてしまっていた。
それの野望へ賭けた人知れない忍辱の生活裏では、長いあいだ、彼に一日の退屈も心の弛緩もゆるさなかった。まったく一面の或る人生すらも忘れさせていたのである。――妻はあり、また側室も、ふたりほどはあったが、そして、性欲の燃えもあるにはあったが――それはそれにすぎなかった。特に一人の女に、恋々と、想いわずらうなどという遊戯はついぞ心に求めたことがない。その部分は今日まで氷ったままであったのだ。それが今夜は、はしなく、一個の惑溺の男を、みずから見ずにいられなかった。