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しょうたく
荷風随筆集(下)〔全2冊〕
永井 荷風
Read 荷風随筆集(下)〔全2冊〕 (しょうたく) by 永井 荷風 (ながいかふう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 36,633 characters · 74 screens
果して雪がふったか、どうであったか、もう能くは覚えていないが、その後も冬になると折々山鳩の庭に来たことだけは、どういうわけか、永くわたくしの記憶に刻みつけられている。雪もよいの冬の日、暮方ちかくなる時の、つかれて沈みきった寂しい心持。その日その日に忘られて行くわけもない物思わしい心持が、年を経て、またわけもなく追憶の悲しさを呼ぶがためかも知れない。
その後三、四年にしてわたくしは牛込の家を売り、そこ此処と市中の借家に移り住んだ後、麻布に来て三十年に近い月日をすごした。無論母をはじめとして、わたくしには親しかった人たちの、今は一人としてこの世に生残っていようはずはない。世の中は知らない人たちの解しがたい議論、聞馴れない言葉、聞馴れない物音ばかりになった。しかしそのむかし牛込の庭に山鳩のさまよって来た時のような、寒い雪もよいの空は、今になっても、毎年冬になれば折々わたくしが寐ている部屋の硝子窓を灰色にくもらせる事がある。
すると、忽あの鳩はどうしたろう。あの鳩はむかしと同じように、今頃はあの古庭の苔の上を歩いているかも知れない……と月日の隔てを忘れて、その日のことがありありと思返されてくる。