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とうじゅうろうのこい

藤十郎の恋・恩讐の彼方に

菊池 寛

Read 藤十郎の恋・恩讐の彼方に (とうじゅうろうのこい) by 菊池 寛 (きくちかん) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.

N2 · advanced · modern kanji and kana · 37,146 characters · 74 screens

Aozora Bunko

その中に、只一人千筋の羽織を着た質素な風俗をした二十五六の男は、万太夫座の若太夫であった。彼は、先刻から酒席の間を、彼方此方と廻って、酒宴の興を取持っていたが、漸く酩酊したらしい顔に満面の微笑を湛えながら、藤十郎の前に改めて畏まると、恐る恐る酒盃を前に出した。

「さあ、もう一つお受け下されませ。今度の弥生狂言は、近松様の趣向で、歌舞伎始まっての珍らしい狂言じゃと、都の中はただこの噂ばかりじゃげにござります。傾城買の所作は日本無双と云われた御身様じゃが、道ならぬ恋のいきかたは、又格別の御思案がござりましょうなハハハハ」と、巧な追従笑いに語尾を濁した。と、藤十郎と居並んでいる切波千寿は、急に美しい微笑を洩しながら、

「ホンに若太夫殿の云う通じゃ。藤十郎様には、その辺の御思案が、もうちゃんと付いている筈じゃ。われなどは、ただ藤十郎様に操られて傀儡のように動けばよいのじゃ」と、合槌を打った。

藤十郎は、若太夫の差した酒盃を、受け取りはしたものの、彼の言葉にも、千寿の言葉にも、一言も返しをしなかった。彼は、酒の味が、急に苦くなったように、心持顔を顰めながら、グット一気にその酒盃を飲み乾したばかりであった。