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ながやてんいちぼう
長屋天一坊
山本 周五郎
Read 長屋天一坊 (ながやてんいちぼう) by 山本 周五郎 (やまもとしゅうごろう) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 29,453 characters · 57 screens
「今すぐ帰りたいか」
「帰いたい」うす馬鹿は片手で涙を拭きながら、躯を揺さぶった、「帰いたい、柳原へ帰いたい、すぐ帰いたいのよ、うえーん、うえーん」
「よし帰れ、許すからすぐに帰ってゆけ」
「えっ、かか、えっ、……ほんと帰っていいの、ほんと帰って、嘘つかない」
「ちょちょちょっとお待ちを願います」
「吾助には構わぬ、早く帰れ」
武士がそう云ったとき、うす馬鹿は既にそこから姿を掻消していた。既にそのときは店の前は、長屋住人たちが人垣を作っていたのであるが、うす馬鹿は店からとび出して、その人垣を抜けて脱走した筈であるけれども、誰一人としてそれを確認することができなかった――ということは、うす馬鹿としていかに命が惜しかったかということの証拠だと思う。
「あな、貴方様はどうしてこんな、こ、こんななされ方は、た、唯では相済みませんぞ、わた、私にはお書付もあり、お短刀もありますぞ、私はただちに御邸へ」
「おお、邸へまいれ」武士は多少は憐愍の尻目で見やった、「殿には御分家に在す折、若気のお過ちにて侍女をお愛し遊ばされた、しかしその侍女は先日お産み申した和子様と共に、殿へお目通りの上、唯今はお中屋敷におられる、第一に、お愛し遊ばされたは九年以前であるぞ、あの乞食は二十歳にはなるであろう、三十一歳の殿に、二十歳の御落胤があってよいと思う