Clásicos japoneses con furigana
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にほんせいしんしけんきゅう
日本精神史研究
和辻 哲郎
Lee 日本精神史研究 (にほんせいしんしけんきゅう) de 和辻 哲郎 (わつじてつろう) en japonés con furigana. JLPT N2. Toca una palabra para ver el significado.
N2 · avanzado · kanji y kana modernos · 208.277 caracteres · 415 pantallas
罪業になやまされる自己を「かかるあさましき身」と観じ、その罪をにくみ、恥じ、苦しむ「心」のあるところには、もはや救いを阻む何らの障礙もないのである。かくのごとく一切が許されるのは念仏という条件の下においてである。もししからずして何らの条件なしに一切が許されるのであるならば、念仏を説くことは不必要である。弥陀の本願を説くことも不必要である。総じて弥陀の本願なるものは、救いを必要とする人がなくては意味のないものである。そうして救いを必要とするということは、そのままでは安んずることのできない悪の状態が認められるということである。
このような解釈が親鸞の真意に適うか否かは知らない。しかし悪人成仏の思想が一切をそのままに是認する思想でないことは明らかであろう。弱い人にとって罪は避け難い。しかし罪を犯す人の内にもより高き心は存在する。そうしてこれを条件としてのみ、彼は許され救われるのである。
以上によって自分は二つの事を明らかにした。親鸞の説くのは弥陀の人に対する慈悲であって、人の人に対する愛ではないこと。一切は許されるとする彼の思想の根柢には、悪を恐れ恥ずる心が必須とせられていること。