Classiques japonais avec furigana
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やまごしのあみだぞうのがいん
山越しの阿弥陀像の画因
折口 信夫
Lisez 山越しの阿弥陀像の画因 (やまごしのあみだぞうのがいん) de 折口 信夫 (おりくちしのぶ) en japonais avec furigana. JLPT N2. Touchez un mot pour le sens.
N2 · avancé · kanji et kana modernes · 15 125 caractères · 30 écrans
雲湧き立つ山下に、仏を囲んで、聖衆・大比丘のある所である。山の此方にあるのが違うのだが、此違いは大きな違いである。日想観及び次の水想観には、ただ韋提希夫人観念の姿を描いたのみであるが、其より先は、如来・菩薩の示現を描いている。日想観において観じ得た如来の姿を描くとすれば、西方海中に没しようとする懸鼓の如き日輪を、心にして写し出す外はない。さすれば、水平線に半身を顕し、日輪を光背とした三尊を描いたであろう。だが、此は単に私どもの空想であって、いまだ之を画因にした像を見ぬのである。併しながら、今も尚、彼岸中日海中にくるめき沈む日を拝する人々は、――即庶人の日想観を行ずる者――落日の車輪の如く廻転し、三尊示現する如く、日輪三体に分れて見えると言って、拝みに出るのである。
此日、来迎仏と観ずる日輪の在る所に行き向えば、必その迎えを得て、西方浄土に往生することになる、と考えたのは当然過ぎる信仰である。此は実践する所の習俗として残っていて、而も、伝説化・芸術化することなくして、そのまま消えて行ったのである。その消滅の径路において、彼岸の落日を拝む風と、落日を追うて海中に没入することと、また少くとも彼岸でなくとも、法悦は遂げられるという入水死の風習とに岐れて行ったのである。