Lecture japonaise

Classiques japonais avec furigana

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しそうとしてのぶんがく

思想としての文学

戸坂 潤

Lisez 思想としての文学 (しそうとしてのぶんがく) de 戸坂 潤 (とさかじゅん) en japonais avec furigana. JLPT N2. Touchez un mot pour le sens.

N2 · avancé · kanji et kana modernes · 209 809 caractères · 408 écrans

Aozora Bunko

処で既にここからも判るように、シェストーフ的エーテルは著しく文学的要求に相応しているものであって、つまり、思想の空隙を文学というサブスタンスの資格で以て、文学的に充たすものが、このシェストーフ的エーテルだったのである。シェストーフは自らの哲学を文芸評論的なものと考え、又その文芸評論は、文芸において哲学を探し求めるものだと云う。シェストーフの哲学が即ちそのまま文学である所に、シェストーフ的なものの穴埋め材料としての特色があったのだ。

哲学と文学とを相即することは、統一的な着眼としては大事な事だが、その相即のさせ方によっては哲学自身の、従って又文学自身の根本的な誤りを導き入れるだろう。このことに就いて私はすでに述べたことであるが(『文芸』十月号、「反動期における文学と哲学――文学主義の錯覚に就いて」〔本全集第二巻、『日本イデオロギー論』所収〕)、一二の文学者を除いては、多くの批評家はその核心を捉えなかったようだ。文学の縄張りとか仁義とかいうクダラない点に着眼する位いが精々だったが、私の云いたいのは、文学主義的範疇ということについてだったのだ。恰もシェストーフなどは文学主義的範疇を哲学的範疇として使う処の最もいい例で、之は彼の科学や理論の機械的な拒否に全く相応わしいことなのである。