Classiques japonais avec furigana
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おきつやごえもんのいしょ
興津弥五右衛門の遺書
Lisez 興津弥五右衛門の遺書 (おきつやごえもんのいしょ) de Mori Ōgai (森 鴎外) en japonais avec furigana. JLPT N2. Touchez un mot pour le sens.
N2 · avancé · kanji et kana modernes · 7 046 caractères · 14 écrans
その子弥五太夫が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太は後四郎右衛門景時と名告った。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従って武功を立てたが、行賞の時思う旨があると云って辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国亀山に往って、本多下総守俊次に仕えた。次いで坂下、関、亀山三箇所の奉行にせられた。寛政(永)十四年の冬、島原の乱に西国の諸侯が江戸から急いで帰る時、細川越中守綱利と黒田右衛門佐光之とが同日に江戸を立った。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之は一日だけ先へ乗り越した。この時寺本四郎右衛門が京都にいる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所の人馬を買い締めて、山の中に隠して置いた。さて綱利の到着するのを待ち受けて、その人馬を出したので、綱利は土山水口の駅で光之を乗り越した。綱利は喜んで、後に江戸にいた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召し抱えた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五人扶持二十石を給わって、中小姓組に加わって、元禄四年に病死した。作右衛門の子登は越中守宣紀に任用せられ、役料共七百石を給わって、越中守宗孝の代に用人を勤めていたが、元文三年に致仕した。