Classici giapponesi con furigana
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あるおとこのしゅき
或る男の手記
豊島 与志雄
Leggi 或る男の手記 (あるおとこのしゅき) di 豊島 与志雄 (とよしまよしお) in giapponese con furigana. JLPT N2. Tocca una parola per il significato.
N2 · avanzato · kanji e kana moderni · 43.279 caratteri · 86 schermate
その時私は二階の書斎で、火鉢にかじりついて雨音をぼんやり聞いていた。前々日来一歩も外に出ないで、会社のことなどは勿論頭の外に放り出し、飜訳のやりかけにも手をつけず、ただ息苦しい空気の中に浸り込んでた間の時間が、非常に良いことのように思われた。そして影絵のようにぼんやりと、いろんなことが見渡されて、陰欝な佗しい影に包み込まれた。これまで嘗て、これが本当の自分の仕事だと思って働いたこともないし、はっきりした心の苦しみや喜びを感じたこともないし、物事に対して明確な批判を下したこともないし、妻や子を真面目に愛したこともないし、ただのらくらと時を過しているうちに、心も身体もだらけきって、そしてこんどの出来事で一度に圧倒されてしまった……そういう自分自身の空虚な生活が――恰も受精しない果実が早熟して自らの重みで地に落ちたような生活が、堪らなく淋しく感じられて来た。而も事件は――妻や松本や光子や河野さんなどと四方に糸を引いている関係は、益々こんぐらかってゆくばかりで、そして私に屈辱を重ねさすばかりで、どう解決がつくのか見当さえつかなかった。それをぶつりと断ち切るような気持で、河野さんと決闘しようなどと考えたが、実際はその方へ一歩も踏み出してはいなかった。