후리가나로 읽는 일본 고전
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こくをみる
古句を観る
柴田 宵曲
柴田 宵曲의 古句を観る(こくをみる)을 후리가나와 함께 일본어로 읽으세요. JLPT N2. 단어를 누르면 뜻이 나옵니다.
N2 · 고급 · 신자체·신가나 · 166,028자 · 333화면
実感に繋る言葉は、一見平凡のようで然らざるものがある。
麦秋や弘法顔の鉢チ坊 巴龍
表を汚い道心坊の通るのを見て、さてさて小汚い坊主だと内儀がいうのを、滅多なことをいうな、弘法様かも知れぬ、と主が咎める。坊主が立どまって、南無三あらわれたという。さてもさても太い坊主だ、弘法様かも知れぬといったら、あらわれたとぬかしたというと、坊主が「またあらわれた」という笑話がある。この句を読んで第一にあの話を思出した。
弘法大師が今も世に存在して随所に現れる、ということは一般に信ぜられていた。大師と知らずに麁末に取扱ったため、その家が後に非運に陥ったというような話も、いろいろ伝わっている。前の笑話はそういう漠然たる信仰を種に使って、ちょっとおどけたところに面白味があるが、巴龍の句にはそれほど曲折はない。麦秋の頃に鉢坊主がやって来る、それが如何にも弘法大師然たる顔をしている、といったのである。「弘法顔」という言葉は、自ら弘法を以て任じている場合にも使われるが、もしそんな手合があれば、必ず山師にきまっている。この句は作者が殊更にそう見たので、大師に関する伝説を頭から肯定したというよりも、むしろその鉢坊主を多少揶揄するような気分で、「弘法顔」