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やもりものがたり

やもり物語

寺田 寅彦

「ホトトギス 第十一巻第一号」1907(明治40)年10月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,340 字 · 9 页

青空文庫

立止って気をつけて見ると、頭に突き出た大きな眼は、怪しいまなざしに何物かを呪うているかと思われた。

始めてこの阪のやもりを見た時、自分はふとこんな事を思い出した。自分が十九歳の夏休みに父に伴われて上京し麹町の宿屋に二月ばかり泊っていた時の事である。とある雨の夜、父は他所の宴会に招かれて更けるまで帰らず、離れの十畳はしんとして鉄瓶のたぎる音のみ冴える。外には程近い山王台の森から軒の板庇を静かにそそぐ雨の音も佗しい。所在なさに縁側の障子に背をもたせて宿で借りた尺八を吹いていた。一しきり襲い来る雨の足に座敷からさす灯が映えて、庭は金糸の光に満つる。恍惚としていた時に雨を侵す傘の音と軽い庭下駄の音が入口に止んで白い浴衣の姿が見えた。女中のお房が雨戸をしめに来たのである。自分は笛を下に置いて座敷にはいった。女中は縁側の戸を一枚々々としめて行って残る一枚を半ばで止め、暗い庭の方をじっと見ている。自分は父の机の前に足と投出したままで無心に華車な浴衣の後姿から白い衿頸を見上げた時、女は肩越しにチラと振り向いたと思う間に戸をはたとしめた。この時の女の顔は不思議な美しさに輝いて、涼しい眼の中に燃ゆるような光は自分の胸を射るかと思ったが、やがて縁側に手をついて、宜しくば風呂を御召しあそばせと云った時はもう平生のお房であった。