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ジャンのものがたり

ジャンの物語

宮本 百合子

「婦人公論」1937(昭和12)年12月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,273 字 · 13 页

青空文庫

この諍いは、ソフィヤ夫人が直接トルストイの出版者であったという事情から、益々紛糾した。今や世界のトルストイが晩年に至って書きのこす日記の一冊、一枚のメモ、それは出版経営者としてのソフィヤ夫人が洩すところなく「私の出版」に収録しようと欲するところであり、而も、トルストイの親友と称する連中も亦「未発表」の何ものかを獲ようととびめぐっている。トルストイは「この争いに生理的に耐え得なくなって来た」。八十二歳のトルストイは、日頃から家庭にある殆ど唯一の理解者、三女のアレクサンドラに手つだわせて家出をした。僧院に向う途中、トルストイはアスタポヴォという寒村の小駅で、急に肺炎をおこして亡くなったのであった。

レフ・トルストイは、全生涯を賭して解決し得なかった諸矛盾のまことに正直な、潔白な負い手として傷つきながら、「自分にとったより遙かに多くのものを」ソフィヤ夫人と八人の子供達とにのこして、死んだのである。

レフ・トルストイの生涯の終った一九一〇年と云えば、四年後にはヨーロッパ大戦が起っている。続いてその三年目は、逝けるレフ・トルストイが目醒めないながらも熾烈に働く人間精神の欲求によってさぐり求めていた万民の幸福への、至難多岐な第一歩がロシア全土に於て踏み出された年である。