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チェーホフしろん

チェーホフ試論

神西 清

――チェーホフ序説の一部として――

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,618 字 · 41 页

青空文庫

リーヂアへの心遣いのようなものも幾ぶんは働らいていたかもしれない。オリガは三十一だった。舞台の役どころも『三人姉妹』のマーシャとか、『桜の園』のラネーフスカヤ夫人とか、『どん底』のナースチャとかいった風の渋い艶のものであって見れば、その人柄も大よその見当はつく。秋の愛の相手にはふさわしい女だったろう。だが、そんなオリガでさえ或る手紙のなかで、「情ぶかいやさしい心があるくせに、なぜそれをわざわざ硬くなさるのか」と、チェーホフの非情な面を咎めざるを得なかった。これでは秋の愛すら成り立つまい。結局オリガは彼にとって、その夥しい手紙の呼びかけが示しているように、「驚くべき可愛い人」であり「母ちゃん」、「わがよき少女」であり、「わが魂の搾取者」であり、「愛する女優さん」、「可愛い仔犬」であり、「わが事務的な積極的な妻」であり……同時にその一さいであり、すなわちそのどれでもなかった、ということになるのではないか。彼の求めたのは、自分の晩年のための陽気な話相手にすぎなかったとさえ言えそうだ。

要するに愛というものがチェーホフにとっては、来世とか不滅とかいうのと同じ空っぽな抽象概念にすぎず、それに対して彼の心が完全な不燃焼物であったことは、決して無根の想像ではないわけだ。