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ひとつのめばえ

一つの芽生

宮本 百合子

「新日本」1918(大正7)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,627 字 · 29 页

青空文庫

十四日は、八度八分、十五日には八度まで下って、牛乳も飲ませてさえやれば四五合ぐらいずつも飲んだ。

けれども、意識はどうしても明瞭になりきらない。或るときは明るく、或るときは暗く、その律動的な素質のままに、歌ったりものを云ったりした。

大波のうねりにまかせて漂っているうちに、フーッと波頭に乗りあげるように、はっきりすると、彼は先ずきっと、「おかあさま」と呼びかける。

「おかあさま、今七月? 七月の何日? 僕なぜここにいるの」

こんなことも云った。

「そこにいるの誰? おかあさま」

「高橋さんですよ」

「高橋? 僕知らないや、こっちへ来て顔見せて。よ」

顔を見ても、声を聞いても名を云われても、彼の頭はもうそれを統一して、高橋さんという一人の看護婦の表象を作る能力を失っているとみえて、何度も何度も同じ問答を繰返しているうちに、またスーッと意識は暗くなって来るのである。

今まで、眼を明いて人の動くにつれて注意を動かしていた彼の顔からは、一つも残らず緊張の影が消えてしまう。

眼をほそくし、何ともいえない単純な、平和な、眠たい幼子の歌うような声で、“In Happy Moments Day by Day”という、彼の愛唱歌の節ばかりを口吟(くちずさ)み始める。