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ひとりふたやく

一人二役

江戸川 乱歩

「新小説」春陽堂、1925(大正14)年9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,740 字 · 14 页

青空文庫

に煩いの残る筈はない、とTは考えていた。

ところが、今彼の心は、最初は全然予想しなかった、極度の混乱に陥って了ったのだ。仮令、仮想の人物にもせよ、細君が彼以外の男を愛し始めたという、この恐しい事実が彼を撃った。始めは狂言であった嫉妬が、真剣なものに変って来た。若しこういう心持が嫉妬といえるならばだ。そこには相手がないのだ。一体全体、誰に向って嫉妬をするのだ。細君は決してT以外の男に肌身を許した訳ではない。つまり、彼の恋敵は、とりも直さず彼自身に外ならぬのだ。

さあ、そうなると、以前はさ程でもなかった細君が、この世に二人とないものに思われて来る。その細君を、他人に(正しく云えば自分自身にだが)奪われたかと思うと、くやしさは一通りではない。細君がぼんやり物思いに耽っている。アア、彼女は今、もう一人の男のことを思っているのだな。そう考えると、もうたまらない。Tは実に取返しのつかぬことをやって了ったのだ。彼は自分自身の仕掛けた罠にかかったのだ。

慌てて、仮装を中止して見たところで、今更ら何の甲斐もなかった。夫婦の間には、いつの間にか妙な隔意を生じていた。