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いちやのうれい

一夜のうれい

田山 花袋

「文藝倶樂部 第二巻第九編臨時増刊 海嘯義捐小説」博文館、1896(明治29)年7月25日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 2,003 字 · 4 页

青空文庫

否、それのみにはあらじ、地震起り海嘯来るときは、賢愚貴賤何の用捨もなく、何の差別もなく、一度に生命を取らるることもあるにあらずや。

然るを、わが身のみ、如何でかこれに異ることのあるべき。たとえ今日は自殺せざるとも、明日如何なる災ありて、死することなしとも限らず、これを思えば、今直ちに死するとも、また少しの遺憾もなしかつまた自から殺すは、卑怯なりという人もあれど、死せんと欲する心の出でて、これを断行し得たる以上は、たとえ自から刀を手にしたりとも、これ果して我の業か、天為なるか知るべからず。さば道理の上に於ては、今直ちに自殺するとも、まことに何の遺憾もなきが如し。されどもし仮に匕首を喉に擬するとするに、何故か知らねど、少しく躊躇して、断行すること能わざる一点の理由の存するが如きを覚ゆ。

あわれこは何故か、われは自からも覚ること能わざれども、こはいまだ確かにその程までの極点に達せざるが故なるべし。否、或はわが身の勇気に乏しきが故にはあらざるか。われとて強いて死を願うにはあらざれども、この面白からぬ世にありながら、我はこれを断行する能わざるを思えば、われながらあまりに意気地なきことなり。