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さんじゅっさい

三十歳

坂口 安吾

「文学界 第二巻第五号」1948(昭和23)年5月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,211 字 · 32 页

青空文庫

二十七歳のころは、私は矢田津世子の顔を見ているときは、救われ、そして安らかであった。三十歳の私は、別れたあとの苦痛の切なさは二十七のころと同じものであったが、顔を合せている時は、苦しさだけで、救いもなく、安らかな心は影だになかった。

私はあの人と対座するや、猟犬の鋭い注意力のみが感官の全部にこもって、事々に、あの人の女体を嗅ぎだし、これもあの女に似てるじゃないか、それもあの女と同じじゃないか、私は女体の発見に追いつめられ、苦悶した。

そのくせ、二十七の矢田津世子はむしろ軽薄みだらであり、三十の矢田津世子は、緊張し、余裕がなかったのだ。

二十七の矢田津世子は、私に二人だけの旅行をうながし、二人だけで上高地をブラブラしたいとか、尾瀬沼へ行ってみたい、などと頻りに誘ったものである。それは時が夏でもあったが、薄い短い服をきて、腕も素足もあらわに、私はそれを正視するに堪えなかったものである。然し、当時のあの人はむしろ無邪気であったのだろう。

三十の矢田津世子は武装していた。二人で旅行したいなどとは言わなかった。私も言わなかった。二十七の私たちは、愛情の告白はできなかったが、向いあっているだけで安らかであり、甘い夢があった。