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かんぱい

乾杯

豊島 与志雄

――近代説話――

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,788 字 · 18 页

青空文庫

傍から彼女も地図を覗きこんでいました。彼はふと眼を挙げました。眼前に、彼女の横額の淡い痣がありました。電灯の光を直正面に受けて、妖気を湛えてるようでした。

彼は椅子から立ち上りました。彼女は顔を挙げました。その黒い瞳が、痣の下から彼に縋りついてきました。彼は彼女の肩に手をかけ、抱きすくめて、自分でも思いがけなく、彼女の痣の上に唇を押しつけました。

「あ。」

声ではなく、全身でそう言うけはいで、彼女は両手で彼を押しのけようとしかけましたが、そのまま両手を顔にあて、泣くような身ごなしで彼にもたれかかってきました。その彼女の全身の、まるで骨のないようなしなやかな柔かさに、彼は驚き打たれ、その柔かさをかき抱きました。彼女全体、彼が知ってる如何なる女性よりも柔かでした。

それが、凡てでありました。

其後、彼女はいつでも、求めらるるままに、唇と抱擁とを彼に許しました。然し彼はそれ以上を求めず、彼女もそれ以上には誘いませんでした。

こういう関係は、若い愛人の間や許婚の間に見られるもので、多くは結婚に至る道程にあるものでしょう。けれど、彼と彼女との間には、未だ嘗て、結婚のことは固より、愛情のことも語られませんでした。