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きょうらくじん

享楽人

和辻 哲郎

「人間」1921(大正10)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,551 字 · 10 页

青空文庫

彼は美しいものには何ものにも直ちに心を開く自由な旅行者として、たとえば異郷の舗道、停車場の物売り場、肉饅頭、焙鶏、星影、蜜柑、車中の外国人、楡の疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えられたあらゆる物象に対して偏執なく愛を投げ掛ける。その愛が酪駝の隊商にも向かえば、梅蘭芳にも向かい、陶器にも向かえば、仏像にも向かう。特に色彩と輪郭と音響とは、彼から敏感な注意をうける。この心の自由さと享楽の力の豊かさとが、『地下一尺集』の諸篇をして、一種独特な、美しい製作たらしめるのである。

木下は青年のころゲエテの『イタリア紀行』を聖書のごとく尊んでいた。この書が彼にいかに強く影響しているかは、『地下一尺集』の諸篇を読む人の直ちに認めるところであろう。確かに『イタリア紀行』のゲエテは彼のよき師であった。しかし彼はこの師によって彼の内のよき芽を培われたのであって、単に師を模倣しているのではない。彼の自由な、余裕ある、落ちついた態度は、ゲエテを模するまでもなく、彼の享楽人としての素質から生まれ出るのである。がゲエテは、きわめて享楽人らしいにかかわらず、根本において享楽人でなかった。