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わかれのじ

別れの辞

豊島 与志雄

「中央公論」1935(昭和10)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,330 字 · 37 页

青空文庫

一

あの頃島村の心は荒れていた、と今になっても多くの人はいうけれど、私はそれを信じない。心の荒れた男が、極度の侮蔑の色を眼に浮かべるということは、あり得べからざることだ。冴えた精神からでなければ、ああいう閃めきは迸り出ない。

尤も、島村については、いろいろ芳しからぬ噂が私達の間に伝わっていた。私自身も、彼について漠然とした危懼を感じていた。当時私はいろんな用件で――それも彼のための用件で――急に彼に逢わなければならないようなことが度々起ったので、彼の行動範囲が大体分ったのであるが、たしかに、彼にはどこか調子が狂ってるようなところがあった。元来、飲酒家というものは、時とすると幾日も家に籠って外出しないことがあるし、時とすると毎晩のように出歩いて酒を飲み廻ることがあるのだが、後者の場合にも、その行く先々……足跡が、大凡きまっているものである。放し飼いにされている犬でさえ、うろつき廻る道筋は大抵きまっている。ところがあの頃、島村の飲み歩く筋道が目立って変ってきて、思いも寄らないところに腰を落付けていたり、また全然行先が分らなかったりすることがあった。