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せんにんばり

千人針

寺田 寅彦

「セルパン」1932(昭和7)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 1,835 字 · 4 页

青空文庫

しかし千人針にはそんな害毒を流す恐れは毛頭なさそうである。戦地の寒空の塹壕の中で生きる死ぬるの瀬戸際に立つ人にとっては、たった一片の布片とは云え、一針一針の赤糸に籠められた心尽しの身に沁みない日本人はまず少ないであろう。どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度にいくらかのちがいがありはしないかと思われる。戦争でなくても、これだけの心尽くしの布片を着込んで出で立って行けば、勝負事なら勝味が付くだろうし、例えば入学試験でもきっと成績が一割方よくなるであろう。務め人なら務めの仕事の能率が上がるであろう。

一針縫うのに十五秒ないし三十秒かかるであろうし、それに針や糸を渡し受取り、布片を延べたり、○印を一つ選定したりするにもかれこれ此れと同じくらいはかかる。それであとからあとから縫い手が押しかけてくれればともかく、そうでないとすると一分に一針平均はよほど六ヶしいであろう。しかし仮りに一分に一つとしても、千針に対しては十六時と四十分を要する。八時間労働としても二日では少し足りない。なかなか大変な仕事である。閑人の道楽ならばいいが、仕事のあるお神さんやおばさん達にはあまり楽な仕事ではなさそうである。