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ねむのきのかげ
合歓木の蔭
山本 周五郎
「新読物」交友社 、1948(昭和23)年9月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,740 字 · 27 页
文字ではなくそのままあのささやきの声であった。奈尾はそれをまざまざと耳で聞いた。それからの時間をどう過ごしたか覚えていない、夜になって、良人も召使たちも寝てしまい、家じゅうがしんと鎮まりかえったとき、奈尾は寝所をぬけて庭へ出ていった。春ではあるが夜気は冷え、あやめもつかぬ闇であった。まわってゆくと隠居所の障子に燈がさしていて、庭の樹立がほのかな片明りに浮いてみえた。魔に憑かれたような足どりで奈尾は合歓木の側までいった。
「ああ来てくださいましたね、やっぱり」からたちの生垣の外から、すぐにこうささやく声がした、「御病気はいいのですか、こんな時刻に出てお悪くはないのですか」
奈尾はわれ知らず合歓木の幹によって身を支えた、全身がしびれて、そのまま倒れるかと思えたのである。ささやきは続いた。
「あなたはゆるしてくださいますね、こうしてまた私がお会い申しに来ることを、あなたに会うことの出来なかった一年、私がみじめで生き甲斐のない日を送ったとお思いですか、いいえ私は仕合せでした、あなたはいつも私のなかにいらしったのです、醒めていても夢のなかでも私は絶えずあなたの姿を見ることができ、お声を聞くことができます。