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しじゅうねんまえのふくろだのたき
四十年前の袋田の瀑
木暮 理太郎
「旅」1936(昭和11)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,049 字 · 8 页
これは全く思い懸けないことであった。谷間の空気は立ち罩むる薄靄で翠が濃い。白くうねり走る久慈の流れ、沿岸に点在する村々の黒木立、山地を彩る闊葉樹の樹林などが皆一様にぼかされて、波立たぬ深い水底の植物叢に似ている。其間を横ぎって飛ぶ渡鳥の群は、さながら大小の魚群にもたとえられよう。峠続きの南に一きわ高い持方村の男体山は、頂は円く東面はなだらかに、西側は急崖を連ねて、紅葉の色が一しお冴え、一団の紅霞が屯しているようで、少なからず登高慾を唆られた。
暮近いのでいつまでも眺望に耽っていることは時間が許さなかった。急いで峠を下った所は袋田の村であったが、深い谷間を想像していた私はオヤと思った、谷はここに開けて水田がある、稲を刈り取った跡には、胸黒らしい十五、六羽の鳥があちこちで餌をあさっている、田の中には新築して未だ完成しない家があった、少しも農家らしくない。この田の間を野川のような姿で滝川が流れている、これが華厳瀑を凌ぐといわれている大瀑から十町とは隔たらぬ流れであろうかと訝らぬ人はあるまい。唯僅に川の上流を望むとき、立ち昇る数条の炊煙を半腹のあたりに靡かせた二百米に余る素晴らしい絶壁が眉を圧して屹立しているのを眺めて、ヤッと不安が静まる。