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とちにかえる
土地に還る
豊島 与志雄
――近代説話――
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,523 字 · 22 页
深い痛苦とか歓喜とかは、どこにも見当りませんでした。
愛情さえも、彼はたいして感じたことがありませんでした。明子との戯れは、それもあの当時のことに遡れば、ただの戯れに過ぎませんでした。正子との親しみも、愛情などというものからは程遠い、ただの親しみに過ぎませんでした。それでは、今、彼女のことを想って心痛むのは何故でしょうか。彼女は何故に自殺などをはかったのでしょうか。しかし、明子のことを想っても心痛みましたし、明子は沈黙の相手にも手紙を書き続けました。いったい彼自身だけが、愚かで鈍感で痴呆なのでしょうか。
それもよかろう、と彼は考えました。そして今や、明子にも返事が書ける気がしましたし、正子にも手紙が書ける気がしました。と共に、そんなことは凡て無意義だという気がしました。亮助から受けた二つの拳固の方が、もっと意味があったかも知れませんでした。
直吉は瞑想からさめると、眉をあげて、高窓にさしてる月の光を仰ぎ見ました。そして自分の席に戻って、先ず辞職願を認めました。それから田舎の兄へ手紙を書き、自分の火傷の跡のことなどこまごまと描き、田舎に身を落着ける意向を述べました。