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かわったはなし

変った話

寺田 寅彦

「経済往来」1934(昭和9)年3月1日号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,474 字 · 17 页

青空文庫

自慢にならぬことを自慢するようで可笑しいが、自分などは冬中はいつでも半分風邪を引いている。詳しく言えば、風邪の症状を軽微なる程度において不断に享楽している。無理をしたくても出来ないという有難い状況に常住しているのである。そのために、あらゆる義理を欠き、あらゆる御無沙汰をして、寒さを逃げ廻っては、こそこそと一番大事なと思う仕事だけを少しずつしている。そのお蔭で幸いに今年はまだ流感に冒されず従って肺炎にもならずに今日までたどりついたような気がする。ましてや雪の山で遭難して世間を騒がす心配などは絶対になくてすんでいるわけである。

危険線のすぐ近くまで来てうろうろしているものが存外その境界線を越えずに済む、ということは病気ばかりとは限らないようである。ありとあらゆる罪悪の淵の崖の傍をうろうろして落込みはしないかとびくびくしている人間が存外生涯を無事に過ごすことがある一方で、そういう罪悪とおよそ懸けはなれたと思われる清浄無垢の人間が、自分も他人も誰知らぬ間に駆足で飛んで来てそうした淵の中に一目散に飛込んでしまうこともあるようである。心の罪の重荷が足にからまって自由を束縛されている人間は却って現実の罪の境界線が越えにくいということもあるかもしれないのである。