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ゆうがおのもん

夕顔の門

吉川 英治

「婦人倶楽部 臨時増刊」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,956 字 · 29 页

青空文庫

『おのれ、今の言葉は、誰を指して? ――』

と、格之進は不意に刀を抜いて、楠平の横顔へ斬りつけた。

楠平は、わっと両手で顔を抑えながら五、六歩ほど蹌めいた。

そして一度は、腰をつきかけたが、血を浴びた刹那に、彼にも武士の性根が勃然と眼を醒まして、

『もうこの上は!』

と、刀を抜合せて、烈しく斬返して来た。

格之進は、彼の鋭い切っ先を、何度もかわしながら、彼の弱るのを待って、滅多斬りに刀で撲った。

お市は、自分の幼い時から、背にも負われ、手にも抱かれた召使なので、さすがに面を向けていられなかった。

『――もう、もう、止してください。格之進様っ。止して下さい。……あっ、誰か彼方から人が来ました。はやく此処を』

『えっ、追手が来た?』

彼女のことばに度を失って、格之進は血刀を提げたまま、お市の走るのに尾いて駈け出した。

だが、その翌々日、男女は、門司から赤間の関へ行く便船の中で、追手の者に、捕まってしまった。

然し、連れ戻されたのは、お市だけで、男の深見格之進は、島の多い海峡の瀬戸口で、追手の隙を見て海へ飛びこんでしまった。

勿論、この事は、田丸家の内輪の者だけで、極秘にされ、お市の婚礼は、急病という態で、延期された。