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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

谷間いっぱいに生えているいたどりはもう黄色く枯れかかっている。私は随分これで煙草の代用として助かったのだが、今のうち採って置かぬと用にはならぬかもしれない。峠まで登ったところで、下に秋の冴えた海が見えて来た。馬の背に跨がった感じのこの鞍乗峠はいつ見ても眺望は優れている。私はもう夫婦喧嘩はやめにした。ほとんど垂直になだれ下った草原の断崖に挟まれた海面は、今日は穏かだ。右手の平野を越して、羽黒、湯殿、月山、三山の重なりを見ていると、それと自然に対抗したくなって来る鞍乗り心地で、むかしこの地を本陣とした西羽黒の対立心が、向うの東羽黒に敗れ、滅亡の因を作ったことも頷かれる眺望である。前方の鳥海山も今日は見事な晴れ姿だ。

「海がこうして見えて来ないと、あたしにはいい景色には見えないんですもの。ここだといいわ。ほんと、素晴しいわ。」

「今ごろ云ったってもう駄目だ。」

柴を背におい、鞍乗の尾根路を左に登りながら、妻はここの海の見える所へ家を一つ建てたいとまた云い出した。しかし、ここでは水を下から運ばねばなるまい。海からの風も激しくあたることを予想しなければならぬ。