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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

まして夜など眠れたものではない。どたんばたんと、あちらでもこちらでも足音がする。

「これなら、空襲の方がまだましだ。」と先ず、私は悲鳴をあげた。

「ほんとにどうでしょう。いることいること。」

「しかし、これだけ人間を苦しめる奴がいるに拘らず、誰も蚤を問題にしたものがいないというのは、何んということだろう。おれはまだ蚤の評論というのを見たことがないね。」

妻は私の云うことなど聞えない。八方へぴょんぴょん跳ぶ蚤を追っかけて夢中である。これは夜中の光景だが、これから毎夜つづくこの苦痛を考えると、他の重要なことなどすべて空しく飛び散るから不思議だ。そこがまた、おかしいのかもしれぬ。しかし、これほど苦痛なことが、おかしいとは、またどうしたことだろう。この蚤に悩まされている最中の自分と妻は、厳粛この上もない苦痛の極点で、歎声さえ発しているに拘らず、おかしいとは、何たる不真面目な客観性が自分たちの中にあるのだろう。笑いの哲学とは、流石に軽妙洒脱なベルグソンの着想だ。こうでなくては哲学は意味をなさぬ。ここを忘れて人間性を云云したところで、――しかし、おかしい。

八月――日