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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

戦時中も今と同様に働き通したが、天作の掘り出した白土は、どれほど多くの人の胃袋へ入ったことだろう。あの酒を吸収して酔漢をなくするノルモザンがこの白土だ。天作は白痴のため戦争など知らない。自分の得た賃金を参右衛門の酒代にすっかり出し、代りに彼から煙草を四五本ケースへ入れて貰うと、ほくほくする。たまの休日には庭の草ひき、草刈り、庭掃除で、小牛と山羊をひっ張り廻して遊ぶのが何より愉しみなようである。弟の十二になるのが何か悪さをすると、天作のしたことにして知らぬふりだ。そして、代りに天作が参右衛門から叱られる。私は五時に起きるがときどき同じ白土工場へ出ている隣家の少年が、

「天作どーん。」

と垣根の外から誘う声がする。すると、

「おう。」

と、応える天作の元気な声は、一日一度の発声のようで朝霧をついて来る。何の不平もない幸福そうな、実に穏かな天作のその眼を見るのは、また私には愉しみだ。これは地べたの上を匐い廻っている人間の中、もっとも怨恨のない一生活だ。他は悉くといってもいい、誰かに、どこかで恨みの片影を持って生活しているときに、上空では自己を忘れた精密な死闘を演じ、下のここでは、戦争を忘れた平和な胃薬掘りの一白痴図が潜んでいたのだ。