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だいぼさつとうげ
大菩薩峠
中里 介山
30 畜生谷の巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 74,962 字 · 145 页
だが、熊としては、人間に危害を加えに来たものでもなく、危害を加えた形跡もありません。
何かの拍子で、檻を放れたのが、気紛れにこの席へ姿を現わしたまでのようです。それを人間が狼狽するから、熊もまた狼狽しているものに相違ない。
熊は、盛んに群衆の中を走っているのは、群衆を追わんがためでなくして、その逃げ口を見出そうとしているものに相違ありません。しかるに人は、それに逃げ口を与えないから、自分の逃げ口も失ってしまい、押し合い、へし合いの混乱で、悲鳴をあげているもののうちには、熊によって害を受けずして、人間によって踏み敷かれつつあるものが多数のようです。
かくて、熊はさんざんに荒れ、人はさんざんに蹂躙し合って、名状すべからざる混乱状態を現わしているうちに、道庵の姿も、いつのまにか演壇から没して、逃げたのか、つまみ出されたのか、それとも群衆に踏みつぶされてしまったのか、影も、形も、見えないという有様です。
「騒ぐな、騒ぐな、どうもしやしねえよ、おとなしい熊だよ、みんなが騒ぐから驚くんだ、どうもしやしねえ」
群衆の後ろにあって、かく呼びかけつつ混乱をなだめんとする声は、まさしく宇治山田の米友の声であります。